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   立本寺の歴史


   立本寺は、その昔真言宗の寺で龍本寺と号した。
   開創年代は不詳であるが、開山青山法印御坊が元久二年
   (1205)遷化されているので、いずれにしても鎌倉初期と考えられる。     

   青山法印御坊以来、真言宗第十一世順海法印に至るまでの間、
   真言宗寺院として継承されていた。
   順海法印の代、宗祖日蓮大聖人御遺弟、肥後阿闍梨日像菩薩、
   当地御弘通の砌、当山に御立寄りになられ教化された。
   ついに問答閉口に終わり、順海法印、日像菩薩の直弟子となり、
   名を玉像院日行上人と改め、 当山日蓮宗改宗の祖となる。
 
  

山梨県指定文化財 旧本堂


立本寺旧本堂 ー山梨県指定文化財建造物ー
                      
当山旧本堂は真言宗の護摩堂として建設されたものであり、
その昔護摩法要が行われていたものと思われる。
内外ともに柱は大面取の角柱で、内部正面側柱上は
吹寄柱の上に共通の船形木を用い、その上に梁をのせ、
外陣境は二本づつの吹寄大面取角柱の上に乗せてある。
「繋虹梁」(つなぎこうりょう)を「吹寄繋虹梁」と呼ぶ。
虹梁下側には鎌倉系統の三葉刳形のような
「錫杖彫」(しゃくじょうぼり)がほどこされています。
その上の四本の虹梁のうち外側の上には「特殊円束」
が用いられている。
これは当時の建築家が唐様の様式から暗示を得たものと思われ、
約700年前の室町中期の貴重な建造物として昭和63年5月に
山梨県の指定文化財建造物に指定されました


七面さんとは 
末法惣鎮守七面大明神(七面さん)と尊称し、
法華経の守護神として古来より広く信仰された。
吉祥天の垂迹、法華経提婆品の龍女等の
諸説がある。七面山は身延山の鬼門を閉じ
七面を開くのでこの名がある。 

七面大明神の尊形
ふくよかな天女形で、台座に腰掛け、天衣を纏い、
頭には宝冠を頂き、左手には宝珠、
右手には鍵(かぎ)を持つ。
鍵は仏の宝蔵を開く鍵の意味がある。
当山では、旧来より「七面大明神」として勧請
され熱心な信仰を集めてきました。
 池田の中世と立本寺
  昭和57年に発行された「池田地史」参照
池田地区の中世を物語るものは、立本寺の800年の歴史である。
さて、中世初頭において、この立本寺は龍本寺と号していたが、いかなる縁起で建立されたもので
あろうか。
元久の頃といえば、源頼家が伊豆の修善寺において殺され(元久元年)、源平壇之浦の合戦で、
遠矢を射た「弓の三与」の一人として有名な浅利与一が甲斐に下向した(建仁元年)頃の事である。

平安時代の日本仏教は、真言・天台を中心とする鎮護国家佛教であり、皇室や公家などの厚い外護の
なかで、次第に堕落していた。こうした背景に、有能な僧侶は、新たな教義を求め、鎌倉時代に至り、
ようやく鎌倉新仏教(禅宗・浄土・真宗・日蓮宗)が成立し、興隆してくるのである。
こうした時代に、当時人口も希薄な村落に、誰が外護者となり、庶民的ではない真言の道場が建立
されたのか。興味深い課題でもある。

この地域は、貞和年間、志摩荘に属していたとみられ、この荘の他の真言の道場をみると、
厄除け地蔵で有名な塩澤寺がある。
境内の貞和板碑には福田保の存在が記されている。
「甲斐国志」文中には、荘・保という言葉が使われているが、
「保」は平安時代に成立した行政区画で、荘・郷と並び、荘園が私領地に対し、郷・保は公領的性格が
強く、当時の墾田開発が盛んなことを示している。

こうしたことから、かつて古墳時代に、加牟那塚を構築した豪族と穴塚・長塚を構築した豪族が、
湯村・千塚・荒川・長松寺・中村・金竹・長塚を開拓して、土地の統治権は一族の首長が握っていた。

その後、大化の改新により土地公有制度により、一時首長の権力は衰えたが、平安時代に至り
首長家を中心として治安・納税の連帯責任を負う福田保として行政区域内に位置づけられたと考えられる



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